大原三千院
- 加藤眞由儒
- 5月1日
- 読了時間: 7分
更新日:4 日前
「京都大原三千院 恋に破れた女がひとり」
子どもの頃から耳にした心に残る名曲(女ひとり)の一節です。
調べてみると1965年、永六輔さん作詞、いずみたくさん作曲の楽曲と知り納得しました。私が生まれた頃の曲ですがその後、名だたる歌手の方に歌い継がれて現在も知られている名曲の一つとなりました。
京都、大原、三千院と名詞を並べただけなのになぜか耳に残るフレーズ。メロディーと歌詞が優しさと神秘さを連想させ、そのあとに続く不穏な歌詞がすべてをひっくり返したようなドラマを連想させます。
作詞家の永六輔さんが少年時代に三千院を訪れ、客殿に座り「聚碧園」(しゅうへきえん)と言う目の前の庭園を見た時に庭師から「鴨居と敷居を天地にして収まるように庭を作っています。座ってご覧ください」と言われた言葉が深く心に刻まれていたそうです。
天台宗 五箇室 跡門に数えられる三千院も駅から20キロ近くも離れていることもあり、かつては訪れる人も少なかったそうですが、この曲を期に多くの観光客が訪れる名所となったのです。私が今回訪れようと思ったのは、全国の龍神さまを祀っている神社を調べた時に、いつも定宿としている京都八瀬のホテルからほど近くに「貴船神社」があり、今回はそこに参拝しようと計画した事に始まります。東京駅を9時半に出ると京都には正午前に到着します。昔は京都まで3時間ほどかかりましたが、今ではのぞみを利用すると2時間7分で到着します。技術力の向上と弛まぬ安全性の追求はさすが世界一と評価が高い日本を代表する乗り物だと感心しました。
ホテルのチェックイン時刻まで間があるので、昔から心に残っていた歌の舞台である三千院に行ってみようと今回考えたのです。ホテルに荷物を預けてそこからタクシーに乗ってと考えていたのですが、2、3泊の小旅行なら身軽に背負えるリュックが良いと秘書にアドバイスを受け、昨年同時期に参拝させていただいた「出雲大神宮」から京都に出向く際は荷物を最小限にしています。元々私は荷物が多く、何があっても大丈夫なようにあらゆる事態を想定してキャリーカートで出かけますが、京都のようにあちこちと歩く時にはその荷物が邪魔になります。対して秘書は要らないものは持っていかない、要るものは現地調達か諦める派なので近場の台湾や香港くらいならリュックで行ってしまいます。私は普段そのような事はしませんが、今回のようにアクティビティを求められる旅では仕方なく妥協しています。そして意外と楽な事に気づきました。大原三千院は定宿ホテルからバスがあるようですが、調べるとそのバスは京都駅から出発している事を知りました。私は京都駅から乗るバスが少し苦手です。まず乗り場がわかりにくい事、そしていつも大混雑しているからです。案の定京都駅の出口を間違えて、連絡通路を渡り線路を超えて反対側に出てしまいました。元に戻って驚きました。バス乗り場に待つ人がほとんどいなかったからです。途中に有名な神社仏閣がないからでしょうか。バスは途中で色々な人が乗り降りし、最後まで乗っていたのは私たちの他一組のお客さんだけでした。バスの揺れが心地よく気が付けば居眠りをしていましたが、あまりの寒さで目が覚めてしまいました。この三連休は大寒波が訪れていて、新幹線も京都までの途中は雪景色でした。京都駅を出発して1時間以上過ぎた頃ようやく大原のバス停に到着しました。
三千院の参道には大原名産のしば漬けや野菜ドレッシングなどが買える土産物屋が軒を連ねます。炭火で焼いた焼き団子やアイスきゅうりを販売している店もあり、食べ歩きも楽しめます。参道に沿って綺麗な小川が流れています。「呂川」(ろせん)と言い、また三千院を挟んでもう一つ「律川」(りっせん)が流れていて、「音無の滝」に繋がっています。律川の奥には仏教声明の発症の地と言われる「勝林院」があります。声明とはお経に節をつけて唱えるもので、その独特の旋律は浄瑠璃や謡曲、長唄など日本の古典音楽、さらには民謡、歌謡曲に至るまでの全ての音楽の元になったと言われています。修行者の音階を上手に取れない様子を「呂律が回らない」と言い、そこから言葉が明瞭に聞き取れない語源になったと言われています。こんな京都の山奥の地に言葉の語源があったと知りとても驚くととともに、日本語とは本当に深い意味と歴史があるものだと改めて感心した次第です。
そうこうしているうちに三千院の石標までやってきました。「三千院門跡」と描かれています。三千院の門があった跡地だと思いましたが、門跡(もんせき)とは皇族や公家が住職を務める位の高い寺院の事だそうです。

【三千院(さんぜんいん)は京都市左京区大原来迎院町にある天台宗の寺院。山号は魚山(ぎょざん)。本尊は薬師如来。三千院門跡とも称する。かつては貴婦人や仏教修行者の隠棲の地として知られた大原の里にある。青蓮院、妙法院と共に山門派の三門跡寺院の1つに数えられている】(Wikipediaより)
貴婦人の隠棲の地から「恋に疲れた女がひとり」と言うフレーズが連想されます。
「三千院」と言う名称は何と明治以降につけられた非常に新しいもので、寺院自体も何度も移転していたそうです。明治政府が行った「廃仏毀釈」(はいぶつきしゃく)により、京都市内にあった領地は没収され、それまでにつけられていた梶井門跡と言う名前も付けられなくなりました。そこで僧侶は薬師堂に掛かっていた扁額に彫られていた言葉から「三千院」と言う名前を付けたそうです。その言葉の由来は「一念三千」という天台宗の教えで、「人の心の動きには一瞬一瞬に三千の世界がある」即ち人の心の中には三千の考え方があると言う事です。Xなどで皆さんのさまざまな意見を散見すると確かにと思います。
石段の上に三千院の玄関口である「御殿門」が聳えています。高い石垣に囲まれて城郭、城門を思わせる風格を備えています。

受付を済ませて中に楽入ると冒頭でお話しした「客殿」があり、縁側には赤い毛氈が引かれて茶所となっていて、庭である「聚碧園」が目の前に絵画のように迫っています。行った日は間もなく3月になろうとしているのに寒く、青空が見えているのに雪が庭園の植え込みや水面や正面の建物に降り積もり、この世のものとは思えない美しさでした。
歴代住職の尊牌がお祀りされている「宸殿」「寝殿」から庭に出ると、平安時代からこの地に別の寺として存在していた重要文化財の「往生極楽院」(おうじょうごくらくいん)が美しい姿を見せています。中には国宝の阿弥陀三尊像が安置されています。
入ってみてびっくりしました。私が1年以上前に夢で見た景色そのままだったからです。
往生極楽院の堂内は極楽浄土を表現していて、堂内いっぱいに金色に輝く阿弥陀如来像が安置されています。その大きさは堂内に入りきらず、天井を船底形に膨らませています。

その慈愛に満ちた御尊顔をはっきりと覚えています。なぜに1年以上前夢にお出ましになったのか。寺院に伺うといつも禅問答のような問いかけをいただきます。神社の神様と違って直接話しかけたり結論をお伝えになったりはなさいません。秩父四萬部寺で顕現された梵字もそうでした。私は参拝させていただきながら答えを見つけていこうと思います。
その後は弁財天、金色不動堂、観音堂を巡り三千院を後にしました。非常に穏やかな気持ちになり、仏様の揺るがない信念を感じるのでした。
お寺を出るとしば漬けのお店が並んでいます。
ここ大原のしば漬けは800年の歴史があるそうです。その歴史を守るためにすべて自家栽培、自家採種で育てられ交雑しないように厳重に管理されてきました。そんな気概が大原で暮らす人々にも、あの歌と共に受け継がれているのではないでしょうか。
世界が平和でありますように。