亀戸天神
みなさま、今回のブログはもっと早く、夏頃に公開する予定でした。しかし、11月30日まで行われる12年に一度の秩父34観音午年総御開帳にみなさまが間に合い、観音さまのご加護を受けていただけるよう、公開の順番を変更しました。申し訳ありません。
桜の季節もあっという間に過ぎ去り、駅からマンションに向かう道路脇の生垣にもツツジが早くも咲きかけています。今年は桜を川口の密蔵院、幸手の権現堂、上野恩賜公園とさまざまな場所で鑑賞し違いを楽しみました。権現堂では菜の花も一緒に見ることができます。さて次はツツジと藤が同時期に花開くので思案のしどころです。それどころか、他にもポピー、ネモフィラ、ハナミズキ、チューリップなど、まるで100メートル走で大人気選手が団子状で一斉にゴールするような楽しさがあります。だからこそ春は心が高揚し何かいいことが起きるような予感がするのでしょう。
今年は昨年伺った時にはもう見頃が過ぎて枯れかけていた藤を見に、亀戸天神にお邪魔しました。
【亀戸天神(かめいどてんじん)は江東区亀戸にある神社(天満宮)である。天満大神、すなわち菅原道真を祀り、受験生などを中心に学問の神として親しまれている。通称は亀戸天神、亀戸天満宮または東宰府天満宮】(Wikipediaより)
亀戸天神といえば藤が有名ですが、ここは江戸時代から「亀戸の五尺藤」として親しまれていた名所です。歌川広重の「名所江戸百景」に描かれた太鼓橋と藤の構図は、フランスの画家クロード・モネにインスピレーションを与え、モネの自宅の睡蓮の池と藤棚に影響を与えたとされています。

その太鼓橋ですが、三つあり、男橋(過去)、平橋(現在)、女橋(未来)を表し、身を清めて本殿に向かうというドラマ仕立てになっています。また亀戸天神は九州太宰府天満宮に対する「東の宰府」としても知られていて、境内は太宰府天満宮を模して造営され、江戸時代には徳川将軍からも篤い崇敬を受けたそうです。
また亀戸天神の最大の神事といえば、文政3年(1820年)から続くとされている「鷽替神事」(うそかえしんじ)で、「幸運を招く鳥」とされている鷽(うそ)をかたどった、檜を手彫りしたお守りを、神職の方々が一年かけて制作し、授与するというもので、毎年1月24日、25日に執り行われるそうです。木鷽を「鳥(とり)」替えることで、凶事を嘘にするという、全国の天神さまで200年以上続けられているお祭りです。
江戸時代の頃は人々が「替えましょう、替えましょう」のかけ声とともに互いの鷽を交換する習わしがありましたが、現在では前年の鷽を神社に納め、新しい鷽と取り替えるようになったそうです。
今でこそ学問の神様として知られている天満宮、天神ですが、実は日本三大怨霊のひとつを祀る神社としてご存じの方も多いのではないでしょうか。平将門を祀る「神田明神」に「鎧神社」、崇徳天皇を祀る京都の「白峯神宮」や「金刀比羅宮」、そして菅原道真公を祀る「天満宮」、「天神」です。都内には「湯島天神」、「成子坂天神」などもあります。
菅原道真は平安時代の貴族で、幼い頃からその才能を遺憾なく発揮し、政治の世界では右大臣にまで上り詰めました。しかし、道真の活躍を妬んだ人物が「道真が今の天皇を潰そうとしている」というデマを流した結果、現在の福岡県太宰府市に左遷され、そこで亡くなってしまいました。すると、京都のあちらこちらに雷が度々落ちるようになり、ついには天皇が暮らす清涼殿にまで落雷し死者も出ます。それによって「道真の祟りだ!」と恐れられるようになり、その怨念を鎮めるために神様として祀るようになったと言い伝えられています。
「陰陽師」という映画では、菅原道真の祟りを鎮めるために北野天満宮に神として祀ったという、陰陽師の歴史的役割について言及される場面があり、また物語のクライマックスでは若き安倍晴明が平安時代最大の怨霊とされる菅原道真の霊を現実世界に呼び出します。
ところで「陰陽師」というものは実在したのでしょうか。証拠として挙げられるのが京都・嵯峨野にある「晴明神社」です。千年以上も祀られ続ける存在が単なる作り物であるとは考えにくいと言われています。ただし「鬼退治」や「式神使い」といった超自然的な描写は、後世の創作によるところが大きいとされています。
実際の陰陽師は災害予測や建築の吉日選定など、実用的な助言を行う専門職だったようです。『源氏物語』にも占いの場面が登場しますが、あくまで現実的な政治ツールとして描かれています。我々が思い浮かべる「神秘の魔術師」と史料に残る「技術官僚」とのギャップが面白いですね。
現存する最古の陰陽道文献『占事略決』をひもとくと陰陽師の知的体系が驚くほど数学的であることがわかります。九星術や六壬神課といった占術は、複雑な計算式に基づいており、当時の最高知性を結集した学問だったようです。
彼らが単なる「超能力者」ではなかったことも重要であり、『今昔物語集』に登場する晴明のエピソードでも、その卓越した観察力と推理力が強調されています。今でいえば「データアナリスト」的な側面が強かったと思います。
陰陽師の存在は「平安時代の行政システム」に欠かすことができず、当時の朝廷記録には『陰陽寮』という機関が確実に存在していました。
朝廷の最高機関である太政官(だじょうかん)に属する中務省(なかつかさしょう)のもとに陰陽寮が設置され、天皇に奉仕し、詔勅(しょうちょく-天皇の発する公的文書)の宣下や、叙位(じょい-位を授ける儀式)、戸籍などの事務、朝廷の職務などを執り行い、陰陽寮には100名ほどの官人が勤務していたそうです。

(AIによるイメージ画像)
しかし、室町時代に起こった応仁の乱で京の都が焼き尽くされると、その能力と効果に疑問符がつき始め、江戸時代に入ると、陰陽道の呪術師的側面は薄れ、天文観測による暦の作成に特化されていきました。この時代、オランダから西洋天文学が入ってきて天体の運行がより緻密に観測されるようになりました。その時に新しい暦を作成したのが天文学者の渋川春海(しぶかわ はるみ)で、指導したのが陰陽師の土御門泰福(つちみかどやすとみ)であると言われています。土御門家は暦の作成・頒布の総元締めであり、天文学・暦学を教える私塾まで開き大いに活躍しました。しかし、明治時代に入ると状況は一転します。
明治3年(1870年)に「天社禁止令」が発令されました。いわゆる陰陽道禁止令です。陰陽道は文明開化にそぐわない邪教として切り捨てられました。その2年後の明治5年には旧暦が廃止され太陽暦が採用されました。これにより土御門家の専売特許が奪われたわけです。その後陰陽師たちは神職になったり、僧侶になったり、はたまたよくわからない新興宗教に走ったりした者もいたそうです。権力の加護を受けた陰陽道は歴史の表舞台から姿を消したわけですが、その考えは、現在の大安、仏滅を気にする日本人の気質に受け継がれています。
良い日を選び悪い日を避けるのは陰陽道の「六曜」の考えに基づき、死者が祟ることもなお一部では信じられています。これこそが日本人が脈々と受け継いできた精神文化ではないでしょうか。
(一部 田中畔道氏著「明治維新で大量にリストラされた陰陽師はどこへ消えたか」より抜粋)
現在の日本では、国会や議会、委員会等で議論を重ねながら政策が策定されていますが、日本の政治を支え、国民生活を安定させるためには、ある程度、暦や吉方などを柔軟に組み込むことも、この先必要なのではないかと私は思います。
色々と思考を巡らせているうちに拝殿の前までやってきました。係の方の指示で四、五列に並びましたので、かなりの参拝客ではありましたが、あまり待つことなくすんなりとご挨拶できました。

「わざわざありがとうございます。勉強会の前後にお寄りいただくと格段に理解が深まりますよ」とおっしゃっていただきました。
参拝後右手の舞台では紫の着物をお召しになった巫女さんがとても美しい舞を披露されていました。

長閑な春の日、青空の下には、色鮮やかな黄緑の葉から浮き出るような紫の花、巫女の舞、にぎわう露店、そして参拝客の幸せな笑顔と歓声が広がっていました。不幸な運命を辿りながらも神様として祀られ、現代の人たちに願いを託されている菅原道真は、この光景をどのような心持ちで眺めているでしょうか。そして、かつては政治の中心軸として日本を支え、我々日本人の精神文化に影響を与えた陰陽師たちは、もしも今実在していたら、この日本を導くためにどのような助言をしていたのでしょうか。

麗らかな春の日に感謝を込めて。
世界が平和でありますように。



