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鹿島神宮

「霰(あられ)降り 鹿島の神を祈りつつ 皇御軍(すめらみくさ)にわれは来にしを」



旅立ちや門出を意味する「鹿島立ち」と言う言葉の元になったと言われている万葉集の一節です。この万葉集の石碑が鹿島神宮の大鳥居をくぐった先に設置されています。大舎人部千文(おおとねりべのちふみ)と言う防人が読んだとされている歌です。「霰降り」あられが地面にあたる音がうるさい=かしましい事から鹿島の枕詞になったと言われています。


意味としましては



鹿島の神さまに祈り天皇の軍隊として私は来たのだが。   と言うものです。



私はこの霰の歓迎を鹿島神宮で受けました。



私の護り神さまが鹿島神宮であられる事から2011年の1月にも参拝させていただきました。


その際に今後の災害についてお知らせをいただき、その2ヶ月後にあの東日本大震災が起きました。


今回はその後10年以上経ってからの参拝です。


茨城県鹿嶋市までは川口事務所からおよそ130km。


高速道路を使って1時間半程で着きました。



鹿島神宮の始まりは何と皇紀元年(紀元前660年)つまり今から2683年前、天皇の御代が始まった初代神武天皇まで遡ります。神武天皇が東国征伐の際に建御雷神(たてみかずちのかみ)に助けていただいた事に感謝されて、神武天皇が鹿島に建立されたのが始まりと言われています。古来「神宮」を名乗る神社は三重県の伊勢神宮、千葉県の香取神宮、そしてここ鹿島神宮の3社のみでした。


また、香取神宮、鹿島神宮、同じ茨城県の息栖(いきす)神社は「東国三社」と呼ばれ、三社を結ぶトライアングルは絶大なパワースポットであるとも言われています。さらには夏至の日に鹿島神宮の東の一の鳥居から西に進むことから日本最長級のレイライン(光の道)とされて、その入り口に当たることから鹿島神宮が「すべての始まりの地」と呼ばれる強力なパワースポットとなっているそうです。



私たちはまず鹿島神宮から1.5キロ程離れている


跡宮(あとのみや)に参拝しました。跡宮は鹿島神宮の境外摂社(けいがいせっしゃ)のひとつですが由緒は不明です。言い伝えによると鹿島大神が初めて天降られた地であり、以来本宮の参拝前日にここを祀るとされています。また奈良県の春日大社が創建された際にはここ鹿島神宮から建御雷神(たけみかずちのかみ)が白い鹿に乗って来られたと言われている事から、奈良の鹿は神の使いとして大切にされているそうです。


建御雷神はその名の通り雷を司り刀剣の神様でもあります。しかし私は鹿島神宮参拝の際には事前知識がなく白紙の状態でした。前にもお話ししていた通りこれから少しずつ勉強させていただきます。


跡宮はさほど広い敷地ではなく最初の鳥居をくぐった後にも住宅が建っていました。鳥居も質素な感じでしたがやはりどこか威厳を感じられる佇まいでした。



その先の鳥居の奥に社殿があり参拝させていただきました。その時風と共に社殿の右側からもの凄いエネルギーを感じ、そして遠くからゴロゴロと雷の鳴る音が聞こえました。何でこの時期にと不思議に思いました。鳥居横の立看板を拝見して、失礼ながら祭神の神さまが建御雷神さまだと初めて存じ上げた次第です。その時もきちんと読んでいなかったためにまさか雷に関係している神さまだとは思ってもいませんでした。なぜならその横に記されていた「物忌」(ものいみ)の記述に気を取られていたからです。この跡宮の傍に女性神官が住んでいて、神の妃のように結婚せず親族にも会うことが許されず一生独身のまま男子禁制の館で過ごしていたそうです。物忌はとても位が高く鹿島神宮では古来から明治4年頃まで実在していたそうです。神に使える物忌から神さまへの人身御供や人柱等、昔は自身の犠牲を厭わず神さまに使えた方たちが数多く居たのだと言う事が今日の社会概念とかけ離れすぎていて衝撃を受けました。


先月書かせていただいた二十四考のお話もそうですが、時代に生きてきた人たちの苦労や大きな流れに抗えない見えない鎖のような絶対的な力を感じてしまうのです。それが現在の日本の閉塞感を作り上げている事に少なからず関係しているのではとも考えてしまいます。最近はいじめや人間関係もその場を離れたり逃げたりと言う選択肢も少しずつ認識されてきていて日本社会も転換期を迎えているのではないかと思っております。



そこから1.5キロ程進むと鹿島神宮本殿の駐車場に着きます。私たちは事前に調べておいた少し離れている無料の第二駐車場に車を停めました。そこから商店街を歩き 鹿島神宮を火から守る水の神様という龍神社(りゅうじんじゃ)に参拝をしました。龍の意味はやはり雷がとどろく音の様子だそうです。月曜日と言う事もあり大半のお店は閉まっており少し寂しい感じがしました。



大鳥居をくぐるとその先に真っ赤な楼門(ろうもん)が見えます。その壮大な美しさは福岡県の筥崎宮(はこざきぐう)、熊本県の阿蘇神社と合わせて日本三大楼門と言われています。美しさだけでなく歴史も一流の楼門です。寛永11年(1634年)鹿島神宮大宮司が三代将軍徳川家光の病気平癒の祈願を行い、それが叶ったお礼として水戸初代藩主の徳川頼房により奉納され、今では重要文化財に指定されています。



楼門右奥にある拝殿は2026年に斎行される12年に一度の大祭「鹿島神宮式年大祭」に先立ち改修中のためシートで覆われていました。ここにお詣りするまでは青空も覗いていたのですが、巨大な杉の木が覆う500メートルの奥参道を歩いている途中からもの凄い雷の音が鳴り響いてきました。それは先にある奥宮に向かうほど強くなり、パラパラと雨も降ってきました。


途中春日大社まで建御雷神を乗せたと言われている鹿を神鹿(しんろく)として大切に飼育している鹿園があったのですが、近くの売店も突然の雨風にシャッターを閉めるほどの事態になってきました。



奥宮に参拝させていただいた時に雷鳴は最大級となり雨もざーっと叩きつけてきました。



周りを覆う高く聳えた杉の木が傘の役目を果たし、何とかその先の要石(かなめいし)までやって来ました。


要石は地震を鎮める石として信仰されています。古来から「御座石」(みまいし)などと呼ばれ江戸時代の錦絵「鹿島要石真図」にも描かれています。ここで雨がもの凄い音を立てている事に気づきました。


よく見てみるとそれは霰でした。


そこで冒頭の万葉集の枕詞に繋がるのです。



確かに最近気象が不安定で霰が観測されたとニュースでも報道されておりました。しかしなぜこの奥宮に参拝させていただいたほんの僅かな間に霰が打ちつけたのか。しかも帰りに楼門へ戻った時にはすでに天気は回復し快晴に戻っていたのです。


奥宮の案内看板には祭神が武甕槌大神荒魂(たてみかずちのおおかみ あらだましい)と書かれていました。後に調べたところ、古代日本人は神霊を外面に現れた荒々しく猛々しい面を持つ荒魂と、柔和 仁慈の徳を備えている和魂の2つの霊能を持つ個別の霊魂から複合的に構成されていると考えていたようです。普段は一つの神格の中で統合されていますが、時には両者が分離し単独で一神格として行動する時もあるそうです。




なので奥宮で霰が降り雷鳴が轟いたのは建御雷神の荒魂がお力を発揮されたのだと悟ったのです。荒魂さまは前述した跡宮からご一緒に来られました。そして帰りには快晴と共にまた和魂として優しく見守っていただいたのです。建御雷神が雷さまそのものであると確信したのが帰りに楼門の裏側を見た時です。門の両側に切り株にイカヅチのマークと片側には太陽が、もう一つには月が描かれていました。それは境内の御神木を利用して2012年に設置されたもので、右には天照大神(あまてらすおおみかみ)を表す太陽、左には月読尊(つくよみのみこと)を表す月のマークが施されていて、その時初めて鹿島の神さまが歓迎なさってくださったんだと感激しました。



その後近くのお蕎麦屋さんで湯葉の蕎麦を頂きました。


湯葉の餡に細い蕎麦の麺が絡んでとても美味しかったです。



それから大洗海岸までドライブしました。


海のない埼玉県民にとっては至福の時間です。


海に沈む穏やかな夕日を見ながら風呂に浸かり、地元の海産物を頂きました。


鹿島の神様からのご褒美だと思うとありがたさがひとしお込み上げてまいりました。



世界が平和でありますように。





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