明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。
昨年からコロナ禍も一段落し観光地には人足が戻ってきているようです。
皆さまはどのような新年を迎えられていらっしゃいますでしょうか。皆さまの心からの願いが叶いますようにご祈念申し上げます。
年初めにお伝えしますのは、昨年10月末に参拝させていただいた出雲大社のお話です。
「縁結びの神社」と言う名称で親しまれている出雲大社。本殿の大きさはもとより鳥居や拝殿、神楽殿の大きさや国旗掲揚塔の長さも最大級です。
昨年暮れにこの出雲大社に初参拝させていただきました。
全国の神々が出雲大社に集まり、各地の神々が留守になるとも言われている和風月名(わふうげつめい)を「神奈月」(かんなづき、かみなづき)とよばれている旧暦10月。逆に出雲では「神在月」(かみありづき)と呼ばれたりするそうです。本当に神様が集まっていらっしゃるのかこの目で確かめてこようと思い、10月末から11月初めに伺いました。
実は参拝に伺う数週間前に秘書の首から背中にかけて朱色の紐状のものが見られていて、何だろうと思っていたのですが、参拝させていただいてその謎が解けました。
出雲空港も初来訪でしたが、やはりこじんまりとした印象でした。こちらも「たんちょう釧路空港」と同じように「出雲縁結び空港」と銘打っておりました。
やはり私の導線が悪いのか空港前でモニュメントは見つからず記念撮影は断念しました。
今回は4年前に参拝に伺った秘書が頼りです。
その日は宍道湖を抜けて松江城を観光しました。
宍道湖を左手に眺めながら車で移動していくのですが「日本シジミ研究所」と言う建物を過ぎた辺りから急激に地下水が滞り澱んでいるのがわかりました。
「宍道湖・中海が汚れてきた原因の一つは、人口の集中化や生活様式の変化、産業活動の発展などにより、両湖に流入する汚濁物質の量が増加したことにあると考えられます。湖沼の水質汚濁の原因となる汚れの発生源は、大きく分けて「生活系」、「産業系」、「農畜産系」、「自然系」に分類できます。
「生活系」とは、家庭からの生活排水など、「産業系」とは、工場や事業場からの排水など、「農畜産系」とは、田畑や家畜からの排水など、「自然系」とは降雨に伴う市街地や山林からの出水などが該当します。
湖沼の水質を保全するためには、こうした各発生源から流入してくる汚濁負荷量を削減することが重要な対策となります。また、このような流域からの汚濁負荷のほか、湖底に堆積している底泥から溶け出す汚濁物質も水質汚濁の原因となっています」(日本シジミ研究所HPより)
やはり釧路湿原のように地方や国だけでなく官民一体となった環境保護措置が急務であると考えさせられました。
そこから15分程で松江城を擁する松江公園に到着しました。平日と言うのに大変賑わっていて、公園駐車場に入る際も少し待ちがあったほどです。
小高い丘から覗く松江城はどの角度から見ても完璧な美しさでした。
松江城は全国に12ある現存天守(江戸時代までに建てられて現在まで残っているもの)のうち国宝指定された5つのうちの1つで、山陰で唯一天守が残る城となっています。2015年(平成27年)に国宝指定されましたが、江戸時代からの雛形(模型)が残る国宝天守は全国でも松江城だけだそうです。天守閣の総面積は約1,700㎡で天守台を入れた高さは約30m。現存する12天守の中で広さは2番目(1位姫路城2,409㎡)高さは3番目(1位姫路城31.5m)古さは5番目(1位犬山城1,585-1590年)に君臨するお城です。
関ヶ原の戦いで戦功を上げた堀尾忠氏(ほりおただうじ)が出雲国、壱岐国を与えられ、松江藩初代藩主になりました。そして父と共に月山富田城(がっさんとだじょう)と言うお城に入城しますが不便だったため、松江に城を建てることにしました。途中で急死したためその息子が引き継ぎ、1611年(慶長16年)に完成したそうです。
千鳥が羽を広げたような美しさから「千鳥城」とも呼ばれている松江城はその美しさだけでなく、隠れる場所がない馬溜(うまだまり-馬を繋いでおく場所)や地階に設けられた井戸、敵の攻撃を防ぐ城内の狭くて急な階段等、とても機能的にできております。400年前には実際に戦国の武士に使われていたと思うととても不思議な気がします。今の時代は一見平和で便利そうに見えますが果たして本当にそうなのでしょうか。
ひととき歴史の証人となるお城に身を寄せたあと出雲空港方向に引き返し、湯の川温泉で旅の疲れを癒しました。島根の「湯の川温泉」は群馬の川中温泉、和歌山の龍神温泉と共に日本三美人の湯の一つであると初めて知りました。眺めの良い貸切風呂で明日の大社参拝に想いを馳せました。
翌日は朝から快晴となり、いつもは長々と寝ている私ですが早くに目が覚めてお風呂で身を清めました。伊勢神宮に参拝させていただいた際は神様に「朝1番でないと意味がない」と言われ頑張って支度しましたが、今回は「ゆっくりで構いません」と仰っていただきました。「他の神様がどこからでも、あなたたちとわかるように印をしました」と仰っていただき、なるほどと数週間前から気になっていた秘書の首飾りの謎が解けました。いつもチワワやパピヨンと、小型犬のあだ名をつけられる秘書は少し唇を尖らせていましたが、まんざら悪い気はしていない様子でした。
宿から出てまず向かったのが「稲佐の浜」(いなさのはま)です。ここのお砂を出雲大社で交換してパワーのあるお砂をいただくと言うのが今回旅のハイライトのひとつです。
稲佐の浜は「国譲り神話」の舞台でもあり、古事記や日本書紀にも登場しています。また日本の渚百選にも選定されています。出雲大社から西に1キロほど離れた浜になります。
稲佐の浜にひときわ目立つ丸い島があります。地元では「べんてんさま」の愛称で親しまれている「弁天島」です。かつては稲佐湾のはるか沖にありましたが、近年急速に砂浜が広がり現在では砂浜と一体化してしまいました。神仏習合の頃は「弁財天」が祀られていましたが、明治の頃から「豊玉毘古命」(とよたまのひこのみこと)が祀られています。
宿の方に砂を入れるビニール袋を分けてもらい、途中のコンビニで砂を掬うスプーンを手に入れました。稲佐の浜はとても気持ちの良い快晴で神様からのプレゼントだと感謝させていただきました。波が寄せるタイミングで掬うのがポイントで引き際で救っても効果はないそうです。秘書は戸惑っていてなかなか掬えませんでしたが、私はすぐに袋いっぱいに詰めました。
浜辺の奥には大国主命(おおくにぬしのみこと)と武甕槌大神(たけみかずちのおおかみ)が国譲りの交渉をしたと言われている屏風岩(びょうぶいわ)があります。武甕槌大神と言えば、私の護り神社である鹿島神宮のご祭神なので、ここにきて大変なご縁を感じるのでした。
お砂をいただいたあとにすぐに出雲大社に向かい、駐車場からまずは「勢溜の鳥居」(せいだまりのとりい)まで歩きました。
こんもりとした丘の上に建立されているので本殿も反対側の街中も良く見渡せます。
この鳥居の周辺はかつて大きな芝居小屋があって多くの人々が集まる場所であったと言われています。「多くの人々が勢いよく集い、溜まる場所」と言った意味で「勢溜」(せいだまり)と言う名称になったそうです。この鳥居も一の鳥居ではなく、二の鳥居になります。一の鳥居は遥か街の下、神門通りの始まりに建っている「宇賀橋大鳥居」(うがばしおおとりい)です。こちらまで歩くと時間がかかりそうなので最後に参拝させていただくことにして、まずは本殿の方へ向かいました。緩やかに下がっていく参道は「下り参道」と呼ばれていて全国でも珍しい参道との事です。途中右側にあるのが「祓社」(はらえのやしろ)です。祓社のご祭神は祓戸四柱の神である瀬織津比咩神(せおりつひめのかみ)、速開都比咩神(はやあきつひめのかみ)、速佐須良比咩神(はやさすらひめのかみ)、気吹戸主神(いぶきどぬしのかみ)です。
由緒には「この四柱の神を総して『祓戸の神』と称します。私たちが知らぬうちに犯した心身の罪汚を祓い清めて清々しい神の御心をいただけるようにして下さる神々です」と書かれています。下り終えると今度は「祓橋」(はらえのはし)があります。出雲大社の背後に聳える「八雲山」(やくもざん)から流れる清流を渡る事で祓社と二重で清める意味があるそうです。八雲山はそれ自体がご神体と言われていて大変パワーのある山です。
そのあとは第三の鳥居である「鉄の鳥居」、松の参道を通りました。
松の参道の先の手水舎、その近くに碑がありそこに書かれている文章を見て驚きました。「だいこく様 大きなふくろをかたにかけ
(中略) だいこく様はだれだろう 大国主のみこととて国を開きて世の人をたすけなされた神様よ」
大国主命が「だいこくさま」と呼ばれていたことは存じ上げませんでした。思えば約30年前に池袋の定食屋さんで初めてお会いした際に、「だいこくと呼ばれている」とお聞きして、疑いもなくインド由来の戦いの神様だと思い、それにしては色白で美しいお顔立ちをされていて、その後ご一緒に鎌倉の寺院に参拝した際に「こんなに太っていないし不細工でもない」と仰った意味がわかりました。
どうやら「だいこくさま」と言えば寺院ではマーハーカーラと言うインドの神様で、神社では大国主命であると思われます。30年ぶりに心にストンと落ちていき、失礼をお詫びしたところとても無邪気に笑っていらっしゃいました。
それにしても不思議なのは、私の守り神が武甕槌大神で秘書を見守っていただいているのが大国主命と言う事です。そのまま「国譲り神話」を時と場所を超えて現代で展開しているような気がしてきます。2人が共同で仕事をしているのはとても大きな意味を持っているのかも知れません。
そうして第四の鳥居「銅の鳥居」まで進みました。銅の鳥居は1666年(寛文6年)毛利綱廣から寄進されたもので、重要文化財に指定されています。
今回はそこから右手の小道を歩き、境外摂社である「命主社」(いのちぬしのやしろ)に参拝させていただきました。小径を進み左手に折れた先に鳥居もない祠がありました。御祭神は神皇産霊神(かみむすひのかみ)です。世界の初めに高天原に出現した、三神(天御中主神 あまのなかぬしのかみ、高皇産霊神 たかむすひのかみ)のうちの一神で、兄神達に謀殺された大国主命を救い蘇生させたと言われています。
出雲大社の摂社(本社に付属し、その祭神と縁の深い祭神を祀った社)であるとは言え大社の境内に比べると質素で見落とすような社ですが、遠くからでもわかるほどエネルギーが満ち溢れていています。特に社の左側に聳え立つ大木が圧倒的な存在感を放っています。あとで調べたところ、推定樹齢1000年と言われるムクノキでした。高さ17m根元回り12mもあります。1976年(昭和51年)に島根の名樹に指定されました。また社殿が建立される前は後ろにあった巨石を信仰していたそうです。真名井遺跡と書かれた票木が立っています。また1665年(寛文5年)巨石の下から銅戈(どうか)硬玉製勾玉(こうぎょくせいまがたま)が出土されました。この2つは天祖系三種の神器のうちの剣と玉にあたり(もう一つは鏡)、出雲大社の近くから出土された事で、1953年(昭和28年)に重要文化財に指定されました。
重要な遺跡や悠久の時を重ねて生き続ける巨木に巨石。そして大国主命を助けられた神様。
地味で小さいお社はともすると見落としがちですがどうぞ出雲大社にお寄りの際は悠久の時の流れを感じてくださいませ。
「私達が眺めている皆さんの時間はあっという間に過ぎていきます。細かいことにこだわらずにゆったりと時を過ごしてください」と仰っていただきました。
出雲大社の境内に戻りようやく拝殿に到着しました。
現在の拝殿は1963年に新築され、大社造りと切妻造りの折衷様式で戦後最大の木造神社建築と言われています。
出雲大社の参拝の形式は一般的な神社と異なり「二礼四拍手一礼」となっています。理由については様々な説がありますがご紹介していると長くなりますので割愛させていただきます。ただ出雲大社だけでなく宇佐神宮や弥彦神社なども四拍手で行うそうです。
そこからまた寄り道をし、右手にある「神祜殿」(しんこでん)と呼ばれる宝物殿にお邪魔しました。
2001年〜2002年(平成12〜13年)出雲大社境内「八足門」(やつあしもん)前に杉の大木3本を1組にし、直径が3mにもなる巨大な柱が発掘されました。そのうちの「心御柱」(しんのみばしら)が宝物殿で公開されています。古代には出雲大社が高層神殿であった可能性を示す柱で、現在でも24mもある本殿が当時は倍の48mもあったそうです。当時の出雲大社の模型も展示されていますが、いく段もの階段の先にある本殿を見上げると、天に届くばかりかと感じたはずです。また八足門の前の床には出土した場所に赤い丸印が付いています。隠れミッキーではありませんので、念のために。
八足門は拝殿の裏手、本殿前にあり一般の我々が参拝できる最も本殿近くの参拝所になります。
その先は入ることはできませんが1月25〜31日は特別参拝を実施し、中のご本殿を間近で見られるそうです。八足門は文字通り8つの支柱で支えられた門で檜皮葺(ひわだぶき)(檜の樹皮で加工する)で1667年(寛文7年)建築の重要文化財です。
そこから反時計回りに裏手に回ります。右手には十九社(じゅうくしゃ)があります。
十九社は本殿に向かって左右2箇所にあり、それぞれ東十九社、西十九社です。19枚の扉がある事が名前の由来だそうです。1809年(文化6年)に建立されたそうです。神有月に行われる「神謀」(かむはかり)と呼ばれる神様の会議の間の宿泊所となり、その間は扉が開いているそうです。
長い時間をかけてようやく本殿裏手の「素鵞社」(そがのやしろ)に到着しました。
素鵞社のご祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)です。大国主命の親神にして天照大神(あまてらすおおみかみ)の弟神と言う超エリート神にして大蛇を退治した八岐大蛇(やまたのおろち)伝説でも有名なスーパーヒーローです。また背後には神職すら立ち入る事ができないとされている「八雲山」(やくもさん)が聳え立っています。八雲山の裾には「磐座」(いわくら)(神道において神が天下る岩のこと)があり素鵞社が背負っている形になっています。鎌倉時代から江戸時代初期にかけては素戔嗚尊が出雲大社のご祭神で素鵞社に祀られていたそうです。なので磐座前に奉納された「お砂」にはお清めやご加護の力が宿ると言われてきたそうです。
早速お砂をいただきにお社の軒下に回りました。お社の横と後ろに砂の入った木箱がありました。
そこに稲佐の浜で掬ってきたお砂を置いて、他の場所からお砂をいただきます。持ってきたお砂より少量をいただくのがマナーのようです。
私がお砂を木箱に入れた途端に一瞬青白い磁気のような気が走り、あっという間に浄化されていくのがわかりました。もの凄いパワーだと驚きました。さらに驚いたのが裏手に回る際に足を取られてよろめいて思わず岩肌に手をついてしまったのですが、まるで静電気に触れたような衝撃を受けました。ご神体のパワーを身をもって体験した瞬間でした。
しばし八雲山のパワーをいただいたのち、残り本殿の周りを歩きました。本殿西側に「遥拝所」の書かれた木札が立っており横に賽銭箱が設置されています。
御本殿に安置される大国主命のご神体が西を向いているので、この西側から参拝すると大国主命の正面から参拝できると言うものです。なぜ西を向いていらっしゃるのか。全国から訪れる神様がまず稲佐の浜に来られるので西方面にある稲佐の浜側を向いているとか、後ろにある父神の素鵞社に背を向けないためとか諸説言われていますが真意については定かではありません。
さて、ひと通り参拝を終え神楽殿で日本一のしめ縄や日本一の国旗を拝見し終えると2時間はゆうに過ぎていました。名物の出雲そばをいただいて一休みしたのち、最初に参拝できなかった宇賀橋の大鳥居まで車で戻りました。鳥居の表側で道路を工事していたために綺麗に写真を撮ることができませんでしたが、きちんと一の鳥居を参拝させていただいた事で満足しました。
その後、万九千神社(まんくせんじんじゃ)に寄りました。
出雲大社からは10キロほと離れた場所にあります。
神在月に出雲に参集された八百万の神々が各地にお帰りの前、最後に立ち寄られ、「直会」(なおらい)と言う打ち上げのような宴会をするそうです。旧暦10月26日の夕方に、神々に出雲から出発する時が来たことを告げる儀式「神等去出神事」(からさでしんじ)が行われます。万九千神社には本殿がなく、やはりご神体として玉垣に囲まれた高さ3mの磐座があります。やはり真名井の遺跡、八雲山に通じるパワーの源であります。
私が感じたのは、直会と言う楽しい宴会をしながらも凄く悲しくて涙が出るほど胸が締め付けられた事です。またいつでもお会いできるのに暫しの別れがたまらなく寂しいのです。それだけ神様は慈愛に満ちていらっしゃいます。そして神様は八雲山を始めとした山々ににびっしりと、それこそ山の木々の数だけいらっしゃる程でした。旧暦10月11日からの1週間は十九社の扉が開くと言われていますので、その間に神様がいらっしゃるのか、または参拝客が居なくなる夜か、どちらにしましても「騒々しいのでこちらの方が居心地がいい」と言う事でした。万九千神社に寄らせていただき、却って悲しみを感じてしまったのですが、また出雲に参拝に伺うお約束をしました。
神様はまたこうも仰っていました。
「とかく人間は神を一つ代表に選び1番を決めたがるが、それは人間の性質を考えると仕方のないことです。実際にはたくさんの神がおり国を護っています。それがまさに八百万の神なのです。」
「これから様々な災害に見舞われることになりますが、私たちは直接あなたたちに手を差し伸べる事ができない。それがとてももどかしいのです。もっともっと神経を研ぎ澄ませて私たちの警告に耳を傾けてください」
飛行機に乗る頃には秘書の赤い紐は細くなり羽田に到着する頃にはすっかり見えなくなっていました。
出雲から帰り仕事始めをした日に、お客様で霊能力の優れた方がいらっしゃいました。
しきりに和室をご覧になって、帰る際にこうおっしゃました。「和室の柱の横に神様がいらっしゃって『丹波から来た』と仰っています。『もうすぐ帰るのじゃ』とも。白い服をお召しになって髪は両側で結んでいます。」
まさに私が池袋でお目にかかった大国さまでした。それにしてもなぜ丹波なのか。
色々と調べたところ京都府亀岡市に「出雲大神宮」と言う神社があり由緒のなかに「元出雲」と言う記載があります。「『元出雲』の別称は出雲大社が出雲大神宮からの分霊とする社伝に由来する。いわゆる出雲大社は明治時代に至るまで『杵築大社』(きずきたいしゃ)を称していたため、江戸時代末までは『出雲の神』と言えば出雲大神宮を指していたとされる」(Wikipediaより)元々は丹波にいらっしゃったのでそう仰ったのでしょうか。
また秘書の肩にいつもいらっしゃる大国さまが人間と対面するにあたって少しでももてなす場として和室を選ばれたのはごく自然な事であり、それを考えると川口で事務所を借りる際に和室付きの物件をご用意してくださった神様のご厚意を考えありがたくも畏れ多い事と感じました。
「国譲り」につきましてはまだまだこれから掘り下げで調べた上で、今度は亀岡の出雲大神宮にも参拝に伺おうと考えております。
世界が平和でありますように。