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加藤眞由儒

北海道神宮

北海道神宮に参拝させていただいたのは2回目となります。前回は2年前、何も考えずにふらりと立ち寄りました。今回は前もって北海道神宮の神様にご挨拶させていただいてからの参拝でした。

私は物心ついた時から八百万の存在や霊などとお話しをしてきましたが、あれこれと詮索せずにごく自然と会話を重ねてきました。会話といっても実際に口や耳を使って言葉で話したりする訳ではなく心の中で直接やり取りをする感覚です。言葉が無いと相手とのコミュニケーションが取れないのはその通りですが、逆に言葉のせいで思いと反対の意思を伝えてしまったり、また相手の真意がわからなくなったりする厄介なのでもあります。直接心で会話する事は嘘偽りなく双方が伝達でき、こんな事を考えてしまったという恥ずかしさはもはや取り払われて素の自分を曝け出す潔さがあり、私にはそちらの方がよほど性にあっていました。

明治2年、「蝦夷地」等と呼ばれていた北海道は日本の国土としてより明確にするために「北海道」と名付けられました。そして同年9月明治天皇の詔(みことのり)(天皇のお言葉)により東京で「北海道鎮座神祭」(ほっかいどうちんざしんさい)を斎行し、開拓三神として大国魂神(おおくにたまのかみ)、大那牟遅(おおなむちのかみ)(大国主命の別名)、少彦名神(すくなひとのかみ)をお祀りしました。その際の御霊代(みたましろ)は東京から運ばれました。御霊代は霊璽(れいじ)とも呼ばれ仏教で言うところのお位牌で、この場合神さまが宿った鏡や剣等です。(北海道神宮HPより)

北海道神宮は元々は「官幣大社(かんぺいたいしゃ)」と言われていました。国がお祭りする大きな神社と言う意味らしいです。繰り返しになりますが私は神社の歴史や仕組みなどはほとんど存じ上げず、これから少しづつ学んでいこうと思っております。もしも間違った記述がありましたらみなさまにご教授いただきたいと思っておます。よろしくお願い申し上げます。日本の神社には民間の信仰から生まれたものが多く、海の神様、収穫の神様と言うように古くからその土地の人々の間で祭られていたものを祠(ほこら-神を祀る建物)にしていました。

それに対して国が神様を決めてお祀りした「国立の神社」があります。

近代社格制度(きんだいしゃかくせいど)と言って明治維新以降に、「延喜式(えんぎしき)ー平安時代の延喜5年(905年)に醍醐天皇が命じ藤原時平、忠平がまとめた一連の法規制」に倣って新たに神社を等級化しました。延喜式では神社を4つに分類しました。官幣大社(かんぺいたいしゃ)、国幣大社(こくへいたいしゃ)、官幣小社(かんへいしょうしゃ)国幣小社(こくへいしょうしゃ)です。そのうち神祇官(しんぎかんー朝廷の祭神を管轄する)から直接幣帛(へいはくー神道の祭祀で神に奉献するもの)を渡されたのが官幣で、納める地方の長から渡されたのが国幣です。国から贈り物が届くか都道府県から届くかの違いですね。

近代社格制度はさらにそれを細かく分けています。

第二次世界大戦後に廃止されましたが「旧社格」などの名称で神社の格を現す目安とされているそうです。格付けの上では官幣大社が1番上で全国神社マップによると官幣大社の神社は69社あり北海道では北海道神宮だけです。埼玉県では氷川神社、東京都では山王日枝神社、日枝神社、明治神宮の三社になります。

話を戻しますが、明治4年に社殿が建てられ「札幌神社」として創祀しました。そうして昭和39年に明治天皇を増祀し社名も「北海道神宮」と改称したのです。ですから昔をよく知る方は「札幌神社」の方が馴染み深いと仰っていました。現在の社殿は昭和49年に放火に遭い昭和53年に復興されました。約18万平方メートルの境内は桜の名所としても知られています。(北海道神宮HPより)

私たちは東京に帰る日に北海道神宮に参拝しました。朝ホテルで朝食をいただく際に北海道神宮の神様に「これから伺います」とご挨拶をしました。

「遠くまでご苦労です。自然豊かで空気が綺麗な所なのでゆっくりしていくように。そして美味しいお菓子があるので楽しみにいらっしゃい」とお声をかけていただきました。


歴史がそんなに古くない神社には本当に神様がいらっしゃるのかと思われるかも知れませんが、東京で神祭を行い御霊代をお運びしているのできちんといらっしゃいます。それどころか自然神を祀った小さな神社でさえ神様は間違いなくいらっしゃり、その土地を必死で護られています。


ホテルをチェックアウトしたあと、車のナビを「北海道神宮」に合わせて目指しました。北海道神宮は札幌の円山公園に隣接しています。円山公園は文字通り丸い山で砂場の山のような見た目です。元々の名前は「藻岩山」(もいわやま)でした。明治3年山形県庄内地方から30戸の農民を入植させ、京都にならって「円山」と改名したそうです。それでは今我々が藻岩山と呼んでいる山は何だったのかと言うと「インカルシペ」と言うアイヌ語の山でした。要らなくなった藻岩山の名前だけ移したようです。藻岩山はアイヌ語で小さな山と言う意味らしいです。北海道の地名はアイヌ語起源が多く漢字を無理に当てはめたりしているのでとても読みづらいです。「長万部」(おしゃまんべ)はアイヌ語で川尻が横になっている川と言う意味で、「増毛」(ましけ)はカモメの多いところと言う意味だそうです。


さて駐車場に車を停めて参拝するわけですが、

駐車場は本殿から見て左右2箇所にあります。

左側が円山公園に面しているもので「円山公園鳥居」と「第三鳥居」です。私たちは右側の駐車場に停めました。駐車場から歩くとすぐに「六花亭」があります。北海道と言えば誰でも思いつくお菓子のメーカーです。その側に「令和の鳥居」があります。鳥居をくぐり少し歩くと大きな通りの表参道があります。左下の遥か先は入り口となっていて大きな鳥居が見えます。しかしこれは一の鳥居ではなく「二の鳥居」なのです。

本当の一の鳥居は本殿からは1キロも離れている街中にあります。最寄駅の地下鉄円山公園駅から神社方向と反対側に戻り遠回りする形になります。存在すらご存知ない方もいらっしゃるのではと思いました。

私たちは偶然「一の鳥居」を車で通りました。

高さ19mもあるとても存在感のある鳥居です。



「一の鳥居」はもとより「二の鳥居」からでさえ参拝されない方がいらっしゃるとお聞きしました。

本殿から見てどちらも北東の鬼門の方角になるので他の鳥居から入ると言う事でした。

神社参拝は縁起担ぎですのでそれぞれのお考えで構わないと思います。私は一の鳥居から参拝させていただくことができてとてもラッキーだと思いました。

また本殿自体も北東の方角を向いていることから、明治時代に南下政策をとっていたロシアに対する防衛だとか、「北の軍都」と呼ばれていた旭川や全国から重罪人が集まってくる網走に向けて日本の治安維持を願ったとか色々な説があります。

また鬼門に向いている事で「縁切り神社」としても名高いそうです。


手水舎はコロナ禍の最中は閉鎖されていたそうですが今は再開しております。傍には明治天皇が読まれた和歌が掲げられています。

「しのびても あるべき時にともすれば あやまつものは こころなりけり」(じっと耐え忍ぶべき時に我慢しきれずに軽はずみをし、取り返しのつかない失敗をしてしまうのが人の心と言うものです)

何だか明治天皇に直接嗜められている気がして襟を正してしまいます。


神門に向かうために中央の石段を登ろうとした時、右手からもの凄く清まった気を感じました。

北海道神宮にお邪魔してから最大のエネルギーです。その場所を見ると家一軒分の空き地でしめ縄でぐるりと区切られていました。達筆な筆字で「祓所」と書かれておりました。

地鎮祭で使われるような「地縄張り」(清める土地を区切り縄を張る、この場合は板)、「斎竹」(いみだけ)(四方に立てる竹、通常は青竹)、「注連縄」(しめなわ)「紙垂」(しで)(しめ縄などに付ける折った白い紙、清浄で神聖な場所である事を示すもの)と同じ作法でした。これはよほど大切な何かがあると思い、後日北海道神宮の事務局に電話で問い合わせたところ、受付からきちんとしたおそらく神職の方に代わられてのち丁寧なご説明がありました。まず参拝させていただいた事へのお礼、そうして問い合わせをした事への感謝をとても丁寧に仰っていただきました。そうして件の空き地は「大祭などの際に清めてから行うための簡易的なお祓いの場です。普段から仕切って清めてあります。」との事でした。厄祓いなどを行うのは祈祷殿と言う本殿併設の場所になりますが、このように簡易的でもきちんと清めてくださる場所があるのはとてもありがたく思いました。車を停めてお祓いもできる程のスペースですが、他の方のブログなどを拝見すると車のお祓いはそのまた前の空き地に車を停めてから拝殿で執り行うようです。

みなさまが北海道神宮参拝にいらして身体を清め霊の汚れを取り癒されたいと思われましたらこの「祓所」の周辺で暫し時を過ごされてはいかがでしょうか。「祓所」の前には北海道神宮の祭神や由緒が書かれた看板や鹿島神宮にも登場した「さざれ石」もあります。どうぞひと時活力を充電なさってください。



神門でご挨拶をしてから境内に入りました。

神門に飾られているのが巨大なしめ縄です。

「フラヌイ大中連縄」と言うそうです。太さ2.5m、重さ400キロもあるしめ縄で捩れが少なく、中央が太くなっています。端の結び目がとても美しいです。「フラヌイ」はアイヌ語で「富良野」を意味して、現在でも中富良野俵御輿同士会によって4年に一度しめ縄が作られているそうです。

そうしていよいよ拝殿に参拝です。



北海道神宮は本殿拝殿共に「神明造」(しんめいづくり)で切妻平入(きりつまひらいり)と言う一般的な建築様式です。天に伸びる千木(ちぎ)が美しい造りとなっています。千木とは屋根の上の細長い2本の木材です。切妻と言う言葉は何か不吉な感じを受けますが、妻とは端、つまり先の方を意味しこの場合屋根の端を切り落としたごく普通の日本家屋です。神明造りは白木造の神社建築様式で横幅が広く高床になっています。出雲大社などに用いられる「大社造」(たいしゃづくり)や住吉大社に使用されている「住吉造」(すみよしづくり)と共に神社本殿形式の中で最も古いものとされています。



調べたところ日本の神さまには二つの系統があり、高天原(たかまがはら)と言う場所にいらっしゃる神々、または高天原から天降った神々の総称を天津神(あまつかみ)と言い、葦原中国(あしはらのなかつくに=地)に現れた神々の総称を国津神(くにつかみ)と言うそうです(wikipediaより)天津神は主に日本書紀に登場する神様で、代表的な神様は天照大神(あまてらすおおみかみ)で、天照大神を祀る神社を神明神社(しんめいじんじゃ)と言い総本社は伊勢神宮の内宮です。

これに対して天孫降臨以前から国を治めてたと言われているのが国津神(くにつかみ)で代表的な神様が大国主命(おおくにぬしのみこと)で出雲大社(いずもたいしゃ)をはじめとして多くの神社で祀られています。

一般的に屋根の面に対して水平の壁に入り口があるものを平入り(ひらいり)と言い天津神を祀る伊勢神宮などがあげられます。

反対に屋根の面に対して横の壁に入り口があるものを妻入り(つまいり)と言い国津神をお祀りする出雲大社などがあげられます。



(画像コトバンクより)



さて、北海道神宮は国津神系ですが平入りとなっています。一説には明治天皇を合祀する予定で平入りの建築にしたのではと言われていますが定かではありません。

私は神様にお声をかけさせていただく時に系統など考えた事はありませんし「天津神様ですか?国津神様ですか?」などと伺った事もありません。神社には祭神が複数いらっしゃったりしますが、「どちらの神さまでしょうか?」などとは恐れ多くてお聞きする事さえありません。神様は普段宇宙の外にいらっしゃり我々のように肉体を持つ存在ではなく、意識だけが神社に向けられています。その意識が私には光の玉のように見えるのです。これもまた機会がありましたらお話しさせていただきたいと思っております。

参拝を終えて御朱印を求めていた時に、北海道神宮の神さまに「金運を呼ぶグッズがあるのでよければ」とお声をかけていただきました。

「金運福搥守」と言う金色の搥を教えていただき早速購入しました。


帰りに「六花亭」に寄りイチオシの「判官さま」を買いました。粒あんが入ったそば粉入りのお餅で、その場で焼いてくださいます。ただベンチも少なく食べる場所がありません。立って食べようとしていたら

また神様が「簡単なベンチが奥にあります。綺麗ではなく申し訳ないですが」と誘導してくださいました。



こうして北海道神宮を後にしたわけですが、この広い北海道を一社だけでお護りするのは非常に大変だと案じ神様に伺いました。「北海道には自然神を祀った神社がたくさんあります。数多の神様たちと力を合わせて北海道を守っていきます」と仰っていただきとても心強く感じました。北海道神宮の神様は今日も円山公園の小高い丘から札幌市や遠く旭川や網走、北海道全体を見渡して皆さまの幸せをご祈念されています。私も遠くからご活躍と北海道の発展を願わせていただくと同時に、またご挨拶に伺わせていただこうと再訪をお約束いたしました。

世界が平和でありますように。


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