それは秘書と出会った年の翌年で、たしか平成6年頃のことですから、今から約30年前になります。秘書の実家がある北海道に遊びに行った際、小樽周辺を訪れました。
小樽は坂道が多く海風の強い港町、尋ねた時はまだ春先で北国では冬の風が頬に冷たく叩きつけていました。私たちはまず小樽市郊外の積丹半島にある鰊御殿を改装した旅館に泊まりました。
「【鰊御殿】一般的に第二次世界大戦前、北海道の日本海側に建てられ網本や漁師たちが寝泊まりをした居宅兼漁業施設(番屋)の俗称」(Wikipediaより)
大漁の鰊で財を成し、贅沢な建築を施した番屋を鰊御殿と呼んだそうです。当日、泊まった旅館はその施設を転用したものでした。明治時代に建てられたとは思えないくらいしっかりとした作りで、元作業場であったであろう広間には天皇陛下がいらしたのか数々のお写真や御下賜品であると思しきお品物など、たくさんの食器類が並べられていました。それらはきちんとした資料館で展示するような見事なもので、一般の旅館に置いてあったのが意外でした。
晩ご飯はどのような場所で何を食べたのかも忘れてしまいましたが、お風呂は通常の旅館のような大きなものではなく、ごく一般的な家庭用であったと記憶しています。部屋も普通の和室に布団を敷いたものでした。お部屋担当の女性に心付けを差し上げたところ、女将さんが飛んできて頭を床に擦りつけんばかりに感謝していたのをなぜか覚えています。眠りにつき、ふと人の気配に目を覚ますと、天井を見て仰天しました。その家の歴代のご先祖と思われる霊がまるで洗濯機の濁流のように連なってやってきたからです。突然のことで驚きはしましたが、恐ろしくはなかったです。なぜなら霊たちはとても礼儀正しくお辞儀をして、それこそ一族総出で歓迎と感謝をしてくれたのです。私は「大丈夫ですよ。また鰊は戻ります」と言った記憶があります。そして数年後に小樽地方でまた鰊が獲れたとニュースになった事を覚えています。翌朝、一連の出来事を秘書に説明しましたがピンときていない様子でした。
その後、小樽の繁華街に向かいました。小樽の街は古い建物を改装してホテルやレストランにしたものが多く、銀行を改装したホテルに泊まったことがあります。銀行の建物らしく、大理石と神殿のような白亜の柱が印象的で客室も金庫室の扉をそのまま利用されていて、とても重厚感があり設備も整っていて快適に過ごすことができました。
周辺を散策しようと近くの土産店をまわったり、寿司屋通りのお店にぶらりと入り寿司を摘んだり、ガラス細工の民芸品を訪れたりと気の向くままに街を歩きました。そして古い鉄道跡地の近くにランチをやっている洒落た洋館の喫茶店があったのを覚えています。
寿司屋通りから小樽総合博物館まで続く「旧国鉄手宮線」は北海道初の「官営幌内鉄道」の一部で、三笠市幌内から石炭を港町小樽まで運ぶために敷かれ、1880年に手宮・札幌間が開通し、その2年後に全通しました。しかし、トラック輸送の台頭により次第にその存在感を失い、1962年に旅客としての営業を廃止し、1985年には路線自体が廃止となりました。
その後2001年から2016年にかけて小樽中心部から発祥地の小樽総合博物館まで1600mが散策路として整備されました。2018年には北海道遺産「小樽の鉄道遺産」に選定されています。今ではお祭りのイベント会場として利用され、線路内を歩ける珍しい場所として観光客にとても人気があります。
前述の喫茶店はその線路から一つ路地に入った住宅街に並んでいます。
日本の昔の年号を店名にしていて、元は診療所であったと記憶しています。店内に入ると落ち着いた色合いの壁や家具に、白い格子の出窓が素敵なアクセントとなっていたのを覚えています。お昼時と言う事もあり店内はかなり混雑していましたが、私たちは運良く窓際の席に案内されました。お店は痩せ型で髭の男性が厨房に入り、ちょっとふっくらした奥さんと思しき女性がホールを1人で忙しそうに走り回っていました。パスタが名物という事で、もう詳しくは忘れてしまいましたが、確か渡り蟹のトマトパスタのような感じのメニューにセットのサラダとスープにデザート、飲み物が付いていたと思います。
ひととおり食べてから食後のコーヒーを飲み始めた時、私は鋭い視線を感じました。
ふと右手の出窓を見るとあまりの衝撃に一気に頭に血液が集まるのを感じました。小さな女の子が窓に腰掛けてこちらを見ていたからです。歳の頃は10歳位で、青と白のタータン・チェックのスカートに真っ白なブラウスを着ていました。淡いブルーの瞳と輝く金髪がまるでフランス人形が絵本から抜け出てきたように美しい少女です。しかしその表情はとても不機嫌そうで、静電気で跳ね上がったような髪はまさに怒髪天と言う言葉がピッタリです。
「ここは元々私の家なの。あの人たちがやってきてから凄く騒がしいし、私の家で好き勝手に振る舞う事が許せない。見ていてちょうだい」と言うのです。
私は恐ろしさのあまり硬直してしまいました。
人形のような可愛いらしい容姿からこのような恐ろしい言葉を聞くとは思わなかったからです。
「いったいどうしたのですか?」秘書が怪訝そうに聞きました。私が窓の方を向いて微動だにしないのを不審に思ったのでしょう。
私が一連のいきさつを話すと、昨日の鰊御殿に引き続きまたしてもフーンと無関心そうでした。
まだ私と仕事をし始めて間も無くの事なのでピンときていないようでした。元々霊の話にはまったく興味がなく、疑り深く、私のことも初めは職業不詳の自由人だと思っていたくらいですから。だからこそ、この仕事の手伝いをお願いする事になったのですが。
その直後店内が騒然としてきました。先ほど店内を駆け回っていた女性が床に横たわっていて毛布を掛けられていました。ご主人らしき男性がしきりに呼びかけています。周りには人だかりができていて、誰が呼んだのか救急車があっという間に到着して女性を担架に乗せて運んでいきました。突然のことに呆気に取られていたところ、ケラケラと笑い声が聞こえてきます。見ると先ほどの女の子が無邪気そうに笑いながら「それ、見なさい」と言ったのです。
私は心底恐ろしくなりました。あまりにも無邪気な表情は悪びれたところが何ひとつなく、当然のような様子だったからです。彼女にとってその建物が正規の手順を踏んで契約された事など関係ないのです。ただ自分の居場所を脅かす存在が許せないのです。
売買のご相談で写真を拝見した時に霊が見えるケースは稀にあります。土地に建物を建てるときは地鎮祭を行うように、自宅などを移転する際には神主様やお坊様に清めていただくなど能力のある方にお願いするのは良いアイデアだと思います。
このように霊の怨念が瞬時に人間に作用するのは稀ですが、日本の有名なホラー映画のように次々と不幸を呼び起こす建物などもあることは事実です。
それだけ人の執着とは恐ろしいのです。
私が勉強会や鑑定を通じて繰り返して申し上げていますように、この世で未練は残さない、執着を捨てる。人を怨んだり妬んだりしない。感謝する。これに尽きると思います。
一連の出来事に超現実主義の秘書も口をあんぐり開けていました。
まだ動悸がおさまらない中、お会計はテーブルで済ませたのかよく覚えていません。
なぜならご主人もいなく騒然としていたからです。
帰りに振り返ってお店を見た時に再び私は凍りつきました。
あの女の子が先ほどの出窓から手を振っていたからです。その時撮った写真にもハッキリと写っていました。
実は後日談があって、秘書の自宅マンションで夜中になると足音がするようになりました。子どものような笑い声も聞こえる時があります。これは秘書もハッキリ聞こえていてさすがに恐がっていました。女の子に聞いてみたところ、秘書が気に入ったので遊びに来ているそうです。「冗談じゃない!」と怒っていましたが、女の子の方が確実に力強そうです。
何日か経った夜に電話がかかってきました。「女の子の頭が見えた」と叫んでいます。 そんな事で大騒ぎしている様子がおかしくて「ご愁傷さま」と言った記憶があります。
「ようこそ、こちらの世界へ」だったかも知れません。その後はそういう現象もなくなりホッとしていました。あの少女は秘書と遊ぶ事で執着を忘れて光の方へ向かったのだと思います。
次回の勉強会では「修行を終える」をテーマに自分の前世を思い出す方法にも触れていきたいと思っています。
私たちの行動は逐一魂側に伝達されていますが、魂側から私たちに向かう回線がうまく接続されていません。もしもあの少女が魂側からきちんと自分のした事や前世の記憶をスムーズに引き出すことができていれば、とうの昔に光の世界に向かうことができ、あの場所に執着する事はなかったでしょう。
昨年の夏、秘書が北海道を訪れた際に小樽に立ち寄り、その喫茶店を探しましたが、結局見つからなかったようです。あの喫茶店がその後どのようになったか知る由もありません。30年も時を経るとどのような出来事も人の脳裏からは消えていきます。私はあの少女の霊が光射す世界に向かい幸せになっている事を願わずにはいられませんでした。
世界が平和でありますように。
Comments