今年の桜は早めに咲き出すかと思っていましたが、折からの寒気に阻まれて、東京の開花宣言も観測史上最も早かった昨年より15日も遅く、例年よりも5日遅くなりました。
そろそろ開花かと言う3月の半ばに、いつもお邪魔している杉戸温泉のサウナに設置されたテレビの情報番組で「川口の安行桜が見頃です」と報道されていました。ソメイヨシノより早くも満開を迎える品種と知り、早速出かける事にしました。しかも安行桜が咲くのは「密蔵院(みつぞういん)」と言うお寺の周辺らしいです。お花見しながらお寺の参拝とは、とても幸先が良いと感じました。
3月後半の休日に訪れました。4日前に香取神宮に参拝した際に、もの凄い突風に見舞われ、改めて経津主大神のお力に感嘆し、前回春日大社で慢心し、突然の地震に驚いた秘書は、今回の突風には相当怯えていました。訪れた日は快晴でしたがまだまだ風は強く時折天空を唸らせていました。
「【密蔵院】 密蔵院(みつぞういん)は埼玉県川口市にある真言宗智山派の寺院。1469(文明元)年、永海法印によって開山された。現在の京都府京都市伏見区にある醍醐寺塔頭無量寿院の末寺である。
江戸時代は幕府より寺領11石が与えられていた。かつては44か寺の末寺を擁していた。
当院の山門は1884(明治19)年に旧薩摩江戸屋敷の門を移築したものである」(Wikipediaより)
密蔵院は川口とは言ってもかなり東寄りの草加市、足立区と入り組んだ場所にあります。首都高川口線なら安行インターチェンジ、埼玉高速鉄道なら戸塚安行駅が最寄駅になります。川口駅からはバスで25分程です。当日は車で向かいましたがかなり道が入り組んでいました。
安行小学校の近くに車が200台も停まれる広い駐車場がありました。
他にも駐車場が4つあります。
メインの駐車場では既に桜が咲いていました。安行桜はソメイヨシノよりは小さく、ピンク味が強い花です。川口安行から広められた、寒緋桜(かんひざくら)と大島桜の交雑種で、一般的には大寒桜(おおかんざくら)と呼ばれているそうです。河津桜も同じ寒緋桜と大島桜の交雑種ですが、こちらはさらに濃い紫色で、安行桜よりも開花時期が1週間ほど早いそうです。密蔵院のホームページには安行桜の生い立ちが事細かに記されていました。
それによりますと、
昭和20年代に沖田雄二さんと言う方が埼玉県立見本園の創設者宅の穂木を貰い接木して育てたそうです。春のお彼岸に墓参りに供えたところご住職の目に留まり、参道に植えるように頼まれたのが始まりだそうです。きちんと経緯を書き記し憶測の飛ばないように配慮しているところに好感が持てました。
また近くには3メートルはあろうかと思われるくらい大きく育ったレッドロビンと言う垣根が珊瑚のように赤い葉をぎっしりと付けていました。
寺院の規模に比べて駐車場がとても広く、何ヶ所もあり、安行桜を楽しみに来てくれている人のために配慮してくださっているのだと思うと密蔵院の思いやりに心がほっこりします。
駐車場からは下りの坂道が続き、道の両側に安行桜がピンクのアーチを描き、青空と相まって夢のように美しく道案内してくれていました。桜並木の行き止まりには2つの寺標に挟まれた参道があります。
右側には「真言宗智山派」 左には「海寿山 満福寺 密蔵院」と書かれています。
その奥には江戸屋敷から移設したと言われる黒く威厳のある山門が美しい佇まいを見せています。「海寿山」の看板が金で縁取られ、桜の枝が顔を覗かせ記念写真を撮るためにスタイリストがセットアップしたような完璧な構図です。
明治17(1884)年薩摩藩島津家江戸屋敷の中門を移設しました。当時薩摩藩は上屋敷を芝三田(現NEC敷地)、中屋敷を外桜田(現帝国ホテル付近)、下屋敷を芝高輪南町(現ホテルパシフィック敷地内)に有していたそうで、その当時中屋敷の門はどれも黒門で、中屋敷は薩摩藩が江戸に下向の際は必ず使用していたそうです。その黒門はここ密蔵院の黒門の他はすべて消失してしまい、とても貴重なものであるそうです。
山門を潜ると参道が続いていますが、参道の真ん中には正方形を菱形に一列に連ねた模様が続いています。「お砂踏み参道」と言って、四国八十八ヶ所の霊場よりお砂を移し、その砂を踏む事によって巡礼のご利益をいただくそうです。
正面には階段がありとても立派な本堂が建っています。
延命地蔵菩薩(平安時代藤原期、慈覚大師作)を御本尊にしているそうです。平将門が身辺に置く念持仏であったとの伝承があったそうです。
本堂屋根には北斗七星を象ったと言われる「九曜星」の紋章が輝いています。これも平将門が愛用していたそうです。本堂や山門に掛かる紫の暖簾にも白抜きでこの九曜紋が描かれていました。
なぜに平将門なのか、調べてみるとここ安行は大宮台地の先端に位置し、久保山と呼ばれる丘陵であり、その昔平将門が城を築いたと言う伝承があります。
「【平将門(たいらのまさかど)】日本の第50代桓武天皇四代の皇胤(こういん-天皇の男系子孫)であり、平氏の姓を授けられた平高望(たいらのたかもち)の三男の鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん-奈良時代から平安時代にかけて陸奥国に置かれた軍政府の長官)平良将(たいらのよしまさ)の子。下総国、常陸国に広がった平氏一族の抗争から、やがては関東諸国を巻き込む争いへと進み、その際に国府を襲撃して印鑰(いんやく-長官の印と城門の鍵)を奪い、京都の朝廷、朱雀天皇(すざくてんのう)に対抗して、「新皇」(しんのう)を自称して東国の独立を標榜。朱雀天皇の朝敵(ちょうてき-天皇に敵対する勢力)となった。
しかし即位後わずか2ヶ月たらずで藤原秀郷、平貞盛らにより討伐された(承平天慶の乱)
死後は怨霊になり、日本三大怨霊の1人として知られる。後に御首神社、築土神社、神田明神、国王神社などに祀られる」(Wikipediaより)
平将門の首は平安京にて晒し首となり、獄門(ごくもん)が日本史上で確認されている最も古い記録となっているそうです。
朝廷への反逆者であり、災いをなす怨霊のイメージが強いですが、やがて神田明神に合祀され、庶民の人気を獲得していったそうです。特に将門の故郷である茨城県では中央政府の圧政に立ち向かった悲劇のヒーローとして人気が高く、坂東市では「将門煎餅」と言うお菓子まで販売されているそうです。
川口の密蔵院では平将門が上洛の際に自身の守り本尊であった地蔵菩薩像を奉安したと言われています。本堂の裏手には供養塔もあります。
本堂で参拝させていただいた時に感じたのは、やはり他の寺院と同じようにただ静かに佇んでいらっしゃる様子でした。平将門の忸怩たる思いや怨みなども感じませんでした。まるで無音の宇宙空間のような静寂の中に暫し身を置きました。
密蔵院のすぐ近くには「九重神社」があります。
「【九重神社(ここのえじんじゃ)】は埼玉県川口市の神社。享保年間(1716-36年)に密蔵院の法印栄尊が氷川神社より分霊を勧請したという。そのために密蔵院が別当寺(神社を管理するために置かれた寺)であった。1873年(明治6年)、近代社格制度に基づく「村社(そんしゃ-村の鎮守社)」に列せられ、1907年(明治40年)の神社合祀により、周辺の32神社が合祀され、その中に村社が9あったために社名を「氷川神社」から「九重神社」に改称した。」(Wikipediaより)
御縁起には「大宮大地の先端部に位置し、久保山と呼ばれる丘に当社は鎮座している。その昔、平将門が砦を築いたという言い伝えがあるように、周囲の村々がよく見渡せ、当社境内の御嶽山に登れば筑波山や日光連山を一望することができる。」と書かれています。その通りに見晴らしのいい高台にあり、とてものどかな感じです。
平将門がこの地に城を築いたとされていますが、おそらく川口に住んでいる市民たちの多くはそんな事があったとは知らずに暮らしています。私も初めて知りました。しかし密蔵院の近くには、峯ヶ岡八幡神社と言う神社があり、そこの由緒に「平将門が乱を起こした時に源経基(みなもとのつねもと)が将門追討の勅命を受け、将門を滅ぼしました。その折、悪夢の告によりこの地に新たに八幡宮の一社を造建したと言われています」(峯ヶ岡八幡神社HPより)と書かれていて、やはりここ川口は平将門による「承平天慶の乱」(じょうへいてんぎょうのらん)の舞台のひとつになっていたようです。
今、この世で安行桜が咲き乱れ、こうしてたくさんの人々が訪れる平和な時代を眺め見て、平安時代にその名を轟かせた武将平将門は幾許かでも心和んでいるでしょうか。
世界が平和でありますように。